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2017-11

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すでにもっているのになぁ。

「私は~が足りない」とはよく言う言葉。

でも、「足りないって」なんだろう。

足りない。

そう思ったとたんに何が起こる?

どうしたいと思う?

足りない部分を埋め合わせようとしたくなる。

どこから埋め合わせるものを持ってこようとする?

それは、「外」から。

誰かの真似をする。

誰かのようにやってみる。

とにかく頑張る。

そして、いろいろなものを抱え込んで、逆に重くなる。

「足りない」という思いは、消えない。

「足りない」は何かを得ようと努力して満たされるのではない。

努力して得ようとする。それがローマ7章でパウロが述懐している彼の失敗体験。

必要な力はすでに与えられていると、御言から確信することがスタート。

イエス様を信じ、聖霊が内住されたときに、必要なものはすべて与えられている。

成長とともに、それは外に出てくるもの。

足りないんじゃなくて、まだ外に輝き出ていないだけ。

あわてないあわてない。




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「わたしにはできない」と認めるところがスタート

またもや、詰問に関する気付き。

「なんで、もっと~できないの?」

あぁ~、これも使った〈ろくでもない言葉〉だ。

そもそも、人間の努力で、きよくなれない。

そもそも、人間の意志力や努力で、まったき献身なんかできるわけがない。

でも、言っていた。「なんで、できないの?」って。

「できる」と思っていた自分がいたんだなぁ。

ペテロは、イエス様がゲッセマネに向かう前にこう言った。
「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」
「たとい、あなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」

んで、結果は・・・・。

イエス様が、ペテロに「あなたは、鶏が二度鳴く前に、三度、わたしを知らないと言う」と言われた通りのことが起こった。

パウロも、自分の意志力ではどうにもならないことを告白している。(ローマ7章)

分かっているつもり。

でも言う、「なぜ、~できないの?愛が足りないから、信仰が足りないから、献身が足りないから」と。

つまり、説教で、こういうフレーズが出てくること自体、まだほんとうには分かっていない証拠。

だからこそ、こう言いたい。

「主よ、わたしには全き献身などできません。きよくなることは出来ません。あわれんで下さい」と。

そう。

「自力では不可能」と自覚し、認めることがスタート。

そして、クリスチャンとしての成長は、全生涯を通した、長い長い歩みであることを認める。

そうすると、お互いラクだなぁ。

「もし、~があるなら。できるはずだ。」

「もし、愛があるなら~できるでしょ。」

「もし、信仰があるなら~できるでしょ。」

「もし、献身しているなら~できるでしょ。」

ってことば、以前はよく使っていたなぁ。

こんなろくでもない言葉を使った自分もイタイが、言われた方々、聞かされた方々は、さぞご不快であったろうと思う。

これらは、非常に攻撃力の高い言葉である。

「愛していると言いながら、~もできないの?」

「信じていると言いながら、~もできないの?」

「献身を表明していながら、~もできないの?」

神様が仰るなら受け止められる。

でも、人間風情が言うと、不快。

「なぜ、あなたが「愛」だの、「信仰」だのを楯に要求している行動をすることが、愛のある証明となり、信仰のある証明となり、献身している証明となるのだ?」

と問われれば答えられまい。

「もし~があるなら、~できるでしょ。」

この詰問は、人に何かをやらせるには効果的かもしれない。

でも、真心からの奉仕や礼拝は生まない。

そう気づいた今宵。






伝道って困難?

「日本の伝道って困難だ」って、これまでしばしば言ってきた。

でも、困難ってなんだろう?

「困難」って、私の解釈。

その解釈の根っこにあるのは、

人がたくさん救われる=良いこと
人が救われない=悪いこと

って思い込み、信じ込みがあった。

大切なのは事実。

神様がたくさん人を救って下さっている。
神様はまだ人を救って下さっていない。

そういう事実があるだけ。

そこに善し悪しという判断を加えたのは、わたし。

「困難だ」ということで何を得てきたのか。

同労者、兄弟姉妹からの同情。
自責の念から自分を守ってきた。
「もっと外に出て人と出会おう」という思いと行動。
同じ境遇にある伝道者を応援したい気持ち。

気付いていないけど、もっとあるかも。

困難な伝道地はない。

困難な伝道地にしているのは、「救われる人が起こりにくい=困難な地」という私の解釈、思い込み、信じ込み、判断。

気付けてよかった。

すてちまおう

クリスチャンは、聖書に従う生き方をします。

でも、しばしば、聖書に従うというよりも、その教会の文化、クリスチャンとはこうあるべきという思い込み、教会員の顔色、牧師の顔色などをうかがって生きてしまうことがあるんじゃないかなぁ。

何度も聞いた「~でなければならない」、「~であるべき」。

特に、牧師であれば、「牧師は~べき」。

でも、それ本当に聖書に書いてある?

聖書に書いていなければ、ただの個人的な信念や思い込み。

聖書からの適用?

結構、適用って個人の価値観が反映されがち。

そもそも、イエス様が否定した口伝律法は、適用から生まれた産物。

そんなものに従っても、神様は喜ばない。

にもかかわらず、多くのクリスチャンは、「~べき」、「~でなければならない」という拾わなくてもよい重荷を拾って生きる。

イエス様を信じた時、人生の重荷を解いたのに、クリスチャンになると「~べき」の重荷を拾いまくる。

重いよね。

苦しいよね。

そして、「自分って、いつまでたってもダメなクリスチャン」と思ってしまう。

いや、「自分って駄目なクリちゃん」という考えを証明するために、ダメな部分ばかり拾っていく。

何によって自分をダメって決めているだろか。

聖書?

いいや。多分、「クリスチャンは~べき」という思い込み。

「べき」で生きると、本当に疲れる。

だから、聖書に書かれていない教え、習慣は、思い切って捨てる。

すると、あら不思議。

今まで以上に神様に従いたくなった。聖書を読みたくなった、人を愛したくなった。

人の教えが心を満たしていれば、そこに神様の教えは入って来ない。

人の教えが心から出て行けば、そこに神様の教えが入って来る。

単純な理屈だ。

まだまだ私の心には、聖書の教え以外の「~べき」があるはず

気付いたら捨ててしまおう。

人の教えは、神の戒めを無にするのだから。(マルコ7:9)

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Author:zionbc
茨城県筑西市のキリスト教会です。
所在地:筑西市玉戸1330-18

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日曜礼拝 日曜日 10:45-12:00
水曜集会 水曜日 19:30-20:30

自称:筑西市のチャプレン(笑)

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